Home / 通信バックナンバー / No.83(2016年冬) / 津久井やまゆり園の事件で顕になったのは?

津久井やまゆり園の事件で顕になったのは?

藤田 敏則 

 2016年7月6日、神戸高塚高校前にて26年前の不幸な事件で犠牲となった石田僚子さんを悼む門前追悼がありました。―高塚高校校門圧死事件=教育の在り方を取り違える体制(学校管理者及び県教委)の方針に抗おうとせず同調した教育現場で起きた不幸な事件―。その集会での余韻も冷めぬ7月26日、考えられない事件が発生しました。神奈川県相模原市の障害者施設で凄惨な殺戮を実行した犯人は、自らの動機を障害者は〝不幸の源である″とする確信的な言葉で語りました。さらに深刻に思えるのはこうしたメッセージに対して殺めはせずとも〝いないに越したことはない″と考える人が少なからずいる状況が見えてきたことでした。
 事件が大々的に報じられ、障害者たちの中に自身の存在を否定されていることに不安に感じる者が現れるのは自明でした。問題にすべきは、この事件のあと為政者(国や自治体)の側から犯行の残忍性に対する批難はそれぞれに発せられましたが、障害者が感じている不安を取り除く為には犯人が発した「障害者はいなくなればいい」を打ち消し、命の価値は平等であり「みんな生きていて良い」とする対抗言説が即座に発せられるべきでした。しかし2ヶ月を過ぎた今もそうした声は聞こえてきません。
 事件後あまり語られなかったこの事件の障害者に与える影響を思えば、国家は勿論、ほとんどの国民は差別と排除の論理に対抗する言葉を共通認識として持ち得ていなかったのです。命の尊厳性は個人の能力とは関係なく存在します。そのことを理解はしていたつもりです。しかし個人的に事件をどのように受け止めたのか?こうした自問への返答如何によって、これまでの人権意識の真偽が試されているのかもしれません。
 現在を生きる私達が産業社会の一員である以上、何びとであれ目には見えぬ篩にかけられるのは止むを得ないでしょう。ただ、私たちの生活が全て経済競争に拠ってのみ営まれているかのような錯覚に陥ってはいないでしょうか?思考を硬直させて疎外と排除を否応なく身にまとってはいないでしょうか?人は誰しも人の支え無くして生きることは出来ません。この至極当然な道理を端無くも障害者たちは私に気づかせてくれます。障害を抱えていても一般社会の中で共に働き、共に遊び、共に暮らせる。そうした社会の実現までは長くて遠い道のりかもしれません。
 障害者に限らず社会的弱者を排除する世の中こそが不健全であり、全ての弱者を包括的に取り込める社会こそが健全であることを今一度心に刻みたいと思います。