Home / 通信バックナンバー / No.84(2017年夏) / 「阿賀のお地蔵さん」原画展

「阿賀のお地蔵さん」原画展

所 薫子 

 2016年12月、自宅ギャラリーで、『絵本「阿賀のお地蔵さん」原画展、WAKKUN』を不思議なご縁で「まず、知るところから」と、開催しました。
 1965年、阿賀野川上流にあった昭和電工鹿瀬工場から有機水銀が流され、それを体内に取り込んだ川魚を食べた住民が新潟水俣病と公式発表されました。
 その重いテーマを、お地蔵さんの力を借りて、できるだけ軽い切り口で誰でも手にすることのできる、しかも元気の出る絵本にしたいという願いで旗野秀人さん(新潟水俣病安 田患者の会事務局 冥途の土産企画)が、震災に遭った神戸の WAKKUN(涌島克己さん) に絵本制作を頼みました。
 涌島さんは「阪神淡路大震災」後、すぐに被害に遭って崩れた元町商店街のトタンで覆われたその壁に元気が出るようにと沢山の絵を描いたり、ボランティアTシャツのデザインを手掛けたり精力的に活動し、去年暮れには、神戸を元気づけた人に贈られる「ロドニー賞」を受賞しました。
 涌島さんは忙しいスケジュールの中で、何度も新潟に足を運び取材しましたが、どうしても重く長いテーマを絵本にすることができませんでした。5回目の取材で、旗野さんに借りた自転車に乗ってお地蔵さんが立つ集落に向かう途中で見聞きしたもの、患者のおばあちゃんに声を掛けられたり、ナシをもらったりしたことが大きな力となり、絵本の形が見えてきたと言います。旗野さんも「おっちゃん」として登場し、「このじいちゃん唄がうまいろー」患者の渡辺参治さんも登場します。渡辺参治さんは百歳でまだ健在です。展示会場では、その参治さんが唄う「唄は百薬の長」のCDも流しました。
 会期中、映画『阿賀に生きる』を上映しました。このドキュメンタリーの制作は1992年、監督は佐藤真さん(故人)、撮影は小林茂さんです。九州の水俣病を題材にした映画『無辜なる海』の助監督を務めた佐藤真さんが、自主上映をしようと各地を回り、旗野さんを訪ねていった時、熊本では映画をはじめ、水俣病について文化運動を発信しているのに、新潟ではそんな取り組みが無いので「新潟で、映画を撮ってくれ」と頼まれたそうです。映画スタッフたちは、3年間、「阿賀の家」に住み込んでこの映画を撮影しました。その間、稲刈りを手伝ったり、酒を汲みかわしたりしながら、生活を共にしていく内に患 者の人たちと交流が深まり、この素晴らしい映画が出来上がりました。
 映画ではいきなり、杖を両方についた老女と老人が、足の付け根まであるようなゴム長靴を履いて泥濘のような狭い田んぼから這い上がって来ます。どうして、こんな苦労までして田んぼを守り続けなければならないのか、始めは理解できませんが、映画が進むにしたがって、自然の美しさ、貧しいけれど豊かな生活、一つ一つが伝わって来ます。割れた窓ガラスを寒い冬も塞がないで、「そこは朝顔の通り道」と開けている豊かさ、秋祭りで村々を廻る若者と老人の会話、200隻以上の舟を造って来た舟大工さんが、昔と同じ工法で若い人と舟を造り上げる工程、シャケ釣り名人が昔のやり方でシャケを釣り、その伝統を守る釣り仲間の人たちとの交流、民俗学の視点からも興味深いと思いました。
 水俣病未認定患者の方々の暗く重いテーマをこんなに楽しんで観ることができるなんて、スタッフの人たちも撮影していく内に、阿賀の人たちの魅力ある生き方に変化していった不思議なドキュメンタリーでした。
 旗野さんは、最初から新潟水俣のことに詳しかったのかと思っていたら、定時制高校生だった時に、成田空港建設をめぐる三里塚闘争のニュースを見て、自分も何かしなければと思い立ち、東京へ向かったそうです。東京駅に降りるとテントが見えました。それは水俣病に抗議するハンスト用のテントでした。そこにいた人に「新潟の水俣病はどうなっているの」と問われて答えられず、新潟県阿賀野市の阿賀野川に近い旧安田町、自分の郷里に戻り、患者の方々の発掘から始められたそうです。
 旗野さんは、地元の人たちと動きながら患者の方々と繋がるようになり、裁判が和解で終わった時に何をやりたいかと尋ねました。すると、「温泉に行きたい」「カラオケが唄いたい」という返事。偏見があって、普通のあたりまえのことを我慢してきていたのです。片時でも痛みや苦しみを忘れられるならと話を聞いて、冥途のみやげ話をいっぱい持って逝ってもらいたいと皆で楽しく旅行に行ったり、美味しいものを食べたり、温泉に浸かったりして、交流を深めました。阿賀野川の川辺には昔から地虫に噛まれると2日で亡くなるという風土病があり、お地蔵さんを祀って毎年土地の人たちがお参りをしていました。その横に熊本水俣の石でお地蔵さんを友人に造ってもらいお祀りをするようになりまし た。
「思いっきり、
おっちゃんに手ぇ振ってから
ボクはダシの吹くほうに
力いっぱい自転車をこぎだしたんや。」
 絵本『阿賀のお地蔵さん』は、そこで終わります。
 私は、父が97歳で亡くなるほんの少し前、絵の話や戦中、戦後のことを初めて聞きました。そして亡くなってから膨大な量の作品と資料、そして父が関わった『火山地帯』や紙芝居『十連寺柿』(土呂久鉱害)、この度の新潟水俣のこと等を不思議なご縁を頼りに、展示会を開催しながら、知るところから少しずつでも歩めたらと考えています。

(『火山地帯』189 号より転載)

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