狼の糞と上湯川

公庄 れい 

 私が子供のころ、当時神戸に住んでいた叔父が帰ってくると祖母の繰り言が始まるのであった。早う嫁を貰えと、そればかり繰り返すのである。30代半ばになって結婚していない叔父は一人前の男とは言えないと祖母は思っていたのだろう。「ほんまに幸一はインノクソニヒイツケタミタイナ男じゃ」と口癖のように言っていた。「犬の糞に火を付けたみたいな男」というのは、この地方で、つまらない男・何の取り得もない無い男を指しているのである。「犬の糞に火を付けたような」がどうして男性への侮辱語になるのかと言うと、狼の糞との対比による。「狼煙」ノロシ、つまり狼の糞は狼煙に使えるが犬の糞は役に立たないのだそうである。幕末、それこそ風雲急を告げたころ、紀州藩では狼の糞を集めている。私の生地花園村に隣接する清水町の町誌はその間の情報を伝えてくれている。その記事を要点のみ以下に記す。
 「ノロシは篝火を焚くごとく木をつみて置くなり。火を付け狼の糞をくぶるなり。狼けぶり上へよく立ちのぼるなり」と宋時代の書にある言われる。十八世紀の「和漢三才図会」にも「狼糞、最も佳といえども多く得難き故、今は用いず」と言われた貴重品である。
 狼の糞と他のものとの見分け方は、狼は動物の死体を毛皮のまま噛むので糞に毛が混じっているので判るそうである。
嘉永6年(1853)丑六月ご入用狼糞人別名前帳
狼糞目方 七十匁 上湯川(集落名)、四十七匁 下湯川弁助 二十五匁下湯川 平兵衛
 上湯川、下湯川の集落は清水町でも一番へんぴな所で和歌山県最高峰の護摩壇山にも近く狼の出没も多かったのであろう。上湯川には小松弥助家という旧家があり、平家の清盛の長男、小松の大臣と呼ばれていた重盛の息子、維盛が家来と共に移り住んだと言われている所である。維盛は熊野の海で入水自殺したと正史では伝えられているが、当地は平氏の重代の臣湯浅氏の権力内であったので維盛は生き延びたのかもしれない。とにかく有田川筋の人達にとっては小松弥助家は特別な存在で、上湯川という在所は、人も含めて小松家の所有という考えが少なくとも明治維新まではというより、昭和初期まで残っていたようである。嘉永六年狼の糞も集落名で出ているのも頷けるのである。
 ”湯川の弥助か 弥助の湯川か”とうたわれており、清水から護摩壇山に上る道から上湯川の方へ杉林に囲まれた薄暗い道を上っていくと、ぽかんと明るい別世界のような空間に出る。段々に田圃が幾重にもかさなり一番上の千坪ほどの平地に大きなお屋敷が建っている。屋敷の東側には氏寺とおぼしきお堂まで具えているのである。
 日本各地に落人伝説は多いが小松家の場合かなり確実ではないかと私には思える。小松家の所有する山林の中に良質の砥石を産出する山がある。ご当主の話によると質の違う砥石を出す二つの山があるそうである。そして有田川流域一体の砥石はすべて小松家から出たものであった。
 砥石は現在の特に都会の人達にとってはあまり馴染みのないものであるが、江戸時代人口の多くが農民や山で働いており、砥石の需要は膨大な量に上がったと考えられる。田畑の肥やしは屎尿と刈り取った草のみであったので、一日に何度も鎌を研ぐ。私の家に残された嘉永三年から明治中期までの「日並記」では、草刈りに費やす時間の多さに驚くが、砥石も一度に何貫も買いこんでいる。そして老人たちは「弥助の砥石でないと」と言っていた。狼の糞と砥石、時代離れした一刻でした。

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