Home / 通信バックナンバー / No.86(2018年夏) / 生きることの終わらせ方

生きることの終わらせ方

公庄 れい 

 若いとき写真に凝っていた父の本棚から昭和初期の「アサヒカメラ」を見つけた。当時の女性の着物の様子が分かるかとページを繰っていてこんな記事に出会った。
 1932年─昭和7年─4月号表紙に「イーストマン追悼号」の文字、349ページに戸外で椅子に座ってこちらを見つめる彼の全ページを使った写真、350ページも又全ページを使っての集合写真、6名の当時のアメリカ名士が並び、イーストマンの隣がリンドバーグ、その隣がエヂソンである。写真の説明に夜と、エヂソン翁が生前科学奨励のため、全米全大学より優秀なる学生を選抜してエヂソン・ラボレートリーで思う存分研究の機会を与えていた。この写真は、1929年とある。
 貧困のうちに育ったジョージ・イーストマンは14才から働きながら写真の勉強に打ち込み、乾板・ロールフィルム・小型映写機の発明改良等、写真技術の大衆化に寄与し、映写機を発明したエヂソンと共にハリウッドの隆盛を築き上げ、世界中に広がるイーストマン・コダックの発展と共に巨万の富をなした。
 大正9年アメリカ・カリフォルニアで大々的な排日運動が勃発、その悪化を憂慮した渋沢子爵などが中心になってアメリカ西部の財界人を招いて親睦を深めたが、イーストマンもメンバーとして来日している。その折、彼と出会った人々がその印象を、寡黙な人、温和な人と語っているが、コダック社と取引のある小西六の本社を訪れた時、その天井の高さを訝り「こんなに天井を高くして贅沢だ、毎日上がったり下りたりするだけでも不経済だ、なぜもう一階増やさなかった」と言ったというのは、いかにもこの人らしい率直さと仕事に対する姿勢をうかがわせる。また生涯独身だったので至る所でその理由を聞かれたらしい。”あまりにも忙しく家庭のために割く時間がない”が彼の答えだったそうである。東京駅で見送った人が「土産物がありませんね」というと「わたしには土産物を与える人がいない」と言ったという。で彼は、従業員の福利厚生に金を使い、自ら必要と認めた慈善事業には寄付を惜しまなかった。
 彼は1932年3月14日午後12時50分、ニューヨーク自宅でピストル自殺を決行した。77才だった。死の決行の直前、居間で主治医と冗談を交わし大声で笑っていたが、ふと医師に「ちょっと書きたいことがあるから・・・」と医師と傍の看護婦を遠ざけ、二人が部屋を去って5分と経たないうちにピストルの音が聞こえ、医師が駆けつけると既に絶命していた。
 氏はまづ、口にくわえていたシガレットを机の端に置き、友人に宛ててごく簡単な遺書を書き残し、万年筆のカバーを元のとおりに直し、眼鏡を遺書の上に置き、ピストルの銃口を胸に当て、心臓を撃った。弾丸は心臓の上部から肩の下を貫通し、氏が腰掛けていたひじかけ椅子の背当てを貫通していた。完全な致命傷で全くの即死であった。
 机の遺書には「友人諸君へ、吾が仕事は終わった。何故に待っていよう。G•E」とのみ書かれていた。
 見事な生きることの終わらせ方、涼しい風が吹き抜けるような。

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