私、85才と11か月

2019年8月25日

公庄 れい 

 めっちゃ忙しい、二十数年も前にやめた着物専門の古着屋の品がたくさん残っている。捨ててしまえば楽だがそれはできない。今、私の手元に細井和喜蔵の「女工哀史」がある。大正14年にこの本は出ている。日本の女の人達が、ゴツゴツした手紡ぎ手織りの木綿や麻の重い着物から解放され、工場で生産された薄くて軽い着物が着られるようになった裏で、文字通り生き血を絞られるような所に追い込まれていた女たちの記録である。
 また、工場へこそやられなかったものの、”嫁殺し”と言われる厳しい労働を強いられながら弓が浜の女たちが産み出した布が古着という形で今私の目の前にある。それを私が今、どうするか、無数の眼が私を見つめている。咎めているのでもなく催促しているのでもない。ただただじーと彼女たちは私を見つめている。
  だから私はメッチャ忙しい。私はもうすぐ86才、私に与えられた時間はもうあまり無いだろう。で、私は大阪の国立文楽劇場に電話した。ー着物を寄付させていただけませんかー「そうおっしゃって下さる方は多いんですけれど、戴いても大抵役に立たないんです」と。しかし私は食い下がる。ーどんな物ならお役に立つんでしょうかー「藍染の木綿の縞とか絹なら細かい小紋なんかが良いんですけれど、写真を送って下されば分かるんですけれど」という事で私は早速写真を送った。すると戴きますという返事がきた。それで私は物置や押入れを引っくり返してダンボール六個の着物類を用意し、後日来宅された文楽の衣装室の人は一点一点調べてダンボール五つ分の衣類を持ち帰って下さった。そして文楽のキップを送って下さったので、初めての文楽体験、幕の降りた暗い舞台の袖からデデデーンと太棹の三味線の音、その途端わたしは六十数年前に引き戻され涙がにじむ。
 戦後数年の新宿駅の地下道は通る人もまばらだった。その地下道の出口近くにムシロをひいて中年の女性が座っていた。品の良い和服姿のその人は三味線を抱えていた。その音は地下道に広がりその空間を満たしていた。が、誰もその音に関心を払う者もおらず太三味線の音はただただ地を這うようにその空間を満たしていた。私がたまたま通りかかった時、一人の男性がポンと小銭を投げながら通り過ぎた。女性はそのことに一顧も払わず三味線を弾き続けていた。背筋をシャンと伸ばしたその女性から音は広がり続けていた。
 あの女の人は着物を着ていた。あのとき着物は活きていた。今、成人式に氾濫する着物を美しいと思う人がいるのだろうか。絹を産み出す蚕は今、蚕フードなる粉末を与えられているという。
 私は忙しい。化学物質に汚染されていない健康な自然から生まれた絹、木綿、麻の衣類が私の手元に残っている。それらを活かすのが私の仕事、小さな端布も捨てられない。小さい袋を作ったり、裂いて織る。時間が、時間が足りない。怠け者でいい加減をモットーとして生きてきた私に神様は罰をお与えになったのだろうか。
 が、この列島の健やかな自然と、この地に生き継いできた人達の感性が育て上げてきた美しい”着物”という物に触れるのは楽しい。やっぱり神様ありがとう。

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