自己責任

2019年8月15日

藤田 敏則 

 昨年(2018)の秋、シリアでの3年4ヶ月に及ぶ拘束を解かれた安田純平氏が漸く帰国することが出来ました。解放に至るまでのいきさつが不明確であれ、喜ばしいニュースではあります。問題はその後この国の中で巻き起こった安田さんに対する不可解なバッシングです。これまでも紛争地域に入ったジャーナリストが身代金目的の人質として武装勢力に拘束される事態は幾度も起きており、そのたび毎、この国では自己責任論が飛び交うのです。その中には、かつて安田さんが日本の対外政策を批判したにも拘らず国の助けにすがった事をとりあげ「恥知らず」と呼び、「救出に国民の税金を使うな」と発言する輩まで現れました。この論理からすると国が在外邦人を保護する際にはその人物の思想信条によって選別しなければならず法治国家の体をなさなくなります。問題の根っこは、こうした例(バッシング)が日本以外に殆ど見受けられない点にありそうです。
 私達が地球上のそこかしこで勃発する紛争地の内情を知ろうとする時、紛争当事国もしくは敵対勢力の発表を鵜呑みにしたのでは正確な理解は望めません。身を危険にさらしてまで現地に赴き住民の声や表情を伝えてくれる彼らの役割は重要です。さらに武力衝突の戦禍に怯える一般市民からすれば安住の地が踏み躙られ、悲惨を極める自分たちの苦しみを外の世界へ伝えてくれる彼等ジャーナリストは救世主でもあるのです。自己責任と言う言葉が今日のように日常の会話に登場し始めたのは、ここ二十年ぐらい前からだったかと思います。使われる場面の多くは、際立った言動で集団の和を乱した者や同調を拒むものに向けて発せられるようです。集団には組織以前の市民グループ、地方の小集落、スポーツや趣味の同好会に至るまで、小さくゆるい繋がりのものから大企業や国家といった強固な組織まであります。この国の様々な集団が概して組織化が進めば進むほど、何故か本来の目的に向かう歩みとは別に組織自体の防御に大きな力が注がれる様になるのです。そうした集団では個人の考えや主張を抑え、同調させる圧力がたえず働きます。絶対的な独裁者はいなくても大方の主張につき従い、異論を封じ込める様になります。この様相が民族に根差した病理か否かは置くとして、こうした組織のあり方を国に当てはめて見ると国防や国益を声高に主張する『政治家』。自己の保身が第一の『有能な官吏』。日々獲得する糧の大小以外に関心のない大多数の『群れに従う国民』。この三者からによる『決められる政治』が政策を誤って生じた悲惨な結果に誰も責任を取ろうとしなかった例は大政翼賛会を持ち出すまでもなく①無らい県運動への住民ぐるみの協力、②優生保護法への無批判な同調、③原発推進への賛同、等々枚挙に困らないぐらいです。このような過ちを冒さぬ為に出来ることは、一人一人が群に安住せず勇気を持って同調圧力に抗するしかありません。
 自己責任と言う言葉を度々耳にするようになった時期はもしかすると、時代が戦後から新たな戦前へと変わる分岐点だったのかも知れません。恒久の平和は、和を尊び事を荒立てずにいれば達成出来るのでは無く、日々築き続ける事で初めて獲得できる様に思えます。
 東日本大震災の年、私が何度となく訪れ身を寄せた東北有数のボランティア受け入れ団体がありました。その事務局の構成員が体育館に逗留する県内外からのボランティア達に向け繰り返し自己責任を口にしていたのです。ここで使われる自己責任は本来の言葉の意味(個人の自由な選択に基づいた行動に伴う責任)とは別な意味で用いられていました。被災地にボランティアを目的に足を運ぶ人は当初から自由な意思に基づいて駆け付けた人達であり、今更くどくど言われる筋合いなどないのです。つまり自己責任のここでの使われ方も先程の安田さんへのバッシング同様に、集団の規律に従わず、勝手な行動をする者に対する戒めに用いられているのです。
 ボランティア団体という災害時一時的に必要とされる集団ですら、この国では個人の行動を規制する方向に作用するのです。X-dayへの道を歩まぬためにも常日頃より群れに従う羊にならない様に心掛けたいものです。

スポンサーリンク