環境

「苦海浄土」を読み終えて

藤田 敏則

 以前から読まなければと想いつつ手つかずのままだった石牟礼道子著「苦海浄土」三部作を5月から6月にかけて漸く読了することが出来ました。
 この作品を『公害企業糾弾の書』『環境保護を訴えた本』『水俣病を追跡したルポルタージュ』『病苦の挙句命を奪われた者への鎮魂歌』。そのどれもが的外れではないものの形容しがたく、現代人の生き方そのものが問われる作品でした。読んでいる私自身は、これまでの無関心と無知がさらけ出される思いです。
 公害認定がなされれば原因企業の責任を明確にして行政の指導の下、被害者救済がなされるのが筋道ではあります。しかし、そう簡単に収まらぬのが常の様です。水俣に限らず公害問題が論じられる際、加害企業の追求に終始し続けることに私は少しだけ違和感を抱いていました。それは、豊島での産廃問題の折りにも指摘された行政の不作為による罪を加えても尚、胸の中に澱が消え残るのです。悲惨極まる患者や遺族らを対岸から眺めつつ、殊更に見据えようとしない自分に苛立っているのかもしれません。
 この本の中で語られるのは患者たちの澄みきった魂から溢れる情念を筆者である石牟礼道子が受け止め、言葉にして記述したものであります。
 眼前に広がる不知火の海と、そこに生きる人々が土地の言葉で我が庭「不知火海」を賛歌し、わが暮らしを謳歌する姿の中に筆者は人本来の豊かさと命の輝きを見つけ出し、言葉を紡ぎ記録せずには居られなかったのでしょう。
 天草(不知火海を挟んで水俣の対岸)に生まれた石牟礼さんには豊饒な不知火の海(いるだけの物どもをくんなさる海)とその海を神とも崇める人たちの姿をかけがえのない世界に認識されていたのです。
 近代産業から派生する公害は目に見える汚染、破壊、病苦のみならず海浜の民の楽土を容赦なく踏み躙り、止どまろうとしません。石牟礼道子はその現場に居合わせし者であり、故なく滅ぼされて行く者の声を記録する役割を担うべくして担ったのです。
 組織防衛をたてに総ての患者救済を渋るチッソ、役所の及び腰な対応、地域社会からの疎外、イデオロギーに縛られしものの関与に見られる欺瞞等々、苦しむ人々に寄り添い、告発と闘争の渦中に身を置き続けた筆者が見たのは、私達が今も信奉してやまない現代文明、その根源への問いかけでした。
 出口の見えぬ闘いの中で患者を代表する者の口からこぼれ出た「チッソの人も救われん限り我々も救われん。」この言葉に応えるだけの精神を国や企業に求めようにも得られないのが今日の社会なのです。
 戦後70年を超えて私達が目指してきた豊かさとは一体何だったのでしょうか。何人に限らず他を犠牲にすることのない〝もうひとつの豊かさ〟は足元を見直す位置からしか見つけられない様に思えるのです。

Last Updated on 2020年10月6日 by manager

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