勝手にシネマ

デジタル映像時代

塩見 正道

映画館へ行く人は少ないが、映像と人間というレベルで考えると、現在ほど「映像」に囲まれた時代はないと言っていい。
スマートフォンは2010年代になって、あっという間に全世界に広がった。今、私たちは無料のアプリケーションを利用してネット上に極私的な映像や呟きをアップしている。すべての人が観察者でありレポーターである現在の社会で、どんな辺境の突発的な事件であろうと、スマホを手にした一人の人間がいるかぎり、全世界がその光景を見ることができる。あるいは密室での殺人もその実行者がスマホを手にした自己顕示欲の強い人間であるならば、衆人環視のもとでの殺人になりうるのだ。
簡単でないのは、デジタルカメラとCG技術によって、映像は客観的実在の像という制約を離れ、いかなる加工も可能になっていることである。殺人現場の動画がネット上にアップされたとしても、それが事実かどうかは分からない。
だから私たちは、映像を、とりあえず関係のない出来事として〈スルー〉している。この、視覚的知覚と肉体的反応の分裂が人間にどのような影響を与えているのか私には分からないが、知覚=無・反応の無意識下での膨大な集積は、現代人の無関心とどこかで繋がっているのではないだろうか。
映画創成期、観客はスクリーンに映された向かってくる列車に思わず逃げたというエピソードが伝えられているが、現在では、ディスプレーから銃弾が飛んできても逃げる人はいないだろう。それは進化なのか、退化なのか。
スマホを手にするようになって、私たちは四六時中スマホの画面を覗き込んでいる。歩きながらも、運転しながらも映像を見ているのだから、現実と映像の混乱が起きても不思議ではないだろう。それでもまだディスプレーというフレームがあるうちは、それを映像と知覚できるだ ろうが、既に実用化が始まっている3次元空間にAIによって投影する環境映像となると、現在の私たちの目では現実か映像かを区別することは不可能である。手を触れて初めて何もないことを知ることができる。だが、実物に一度も触れたことのない手は何もないことすら感じないだろう。
幼いころに映像を媒介せずに、五感を使って外界と直接交通する生活をしなければ、映像から豊かな感触を知覚できない。木枯らしの吹く冬の荒野の映像に冷たい風の皮膚感覚を呼び覚ますためには、実際に冬の荒野に立ってみなければならない。だが、その外界そのものが都市においてはすでに豊かな手触りを失っている。人間は制禦された都市空間の快適さを享受してきたが、それ自体が映像から豊かな感触を受け取る能力を奪ってきたのだろう。子どもたちが映像(仮想現実)に感じているものは、既に手触りを欠いた光と音の無機質な刺激なのではないだろうか。

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