保育・教育

学力に関係なく好きな学校へ行けるような時代にしよう

田中 英雄

 高塚高校の事件のことを考える時、時々発言していることだが、民間の保育園をやっている者として考えられないような出来事である。
 朝登園してくる親子のためにこちらのほうから門扉を開けて待っていることなどはあっても、近づいてくる子どもめがけて戸を閉めることなどはありえない。登園しずらい親子のために、朝家の戸口まで保母が迎えに行くこともある。
 その違いは一方が「教育」機関で、他方が福祉施設だから、比較にならないと思われるかも知れないが、保育園はれっきとした乳幼児の教育機関である。乳児の段階で人間の土台になる感覚(からだ)と言語(社会性)の大部分はこの頃に育つとともに、神経、骨格、内臓のほとんどの形成が完了し、少年期に入っていく。
 乳幼児期の教育と高校の教育の違いとも言えない。というのは娘の通っていたS高校には門らしきものはあっても扉はなかったし、有名なK高校に行けば、なんと皆私服だった!こうも違うものかと驚いてしまった。学力のあるものには多めに自由を与え、偏差値の低いものが集まるところにはムチを与える。同じ人間をこうも差別して扱う教育のあり方に胸が圧迫されそうになる。高塚高校の先生方は自分たちの学校に通う生徒たちを厳しく管理することによって学力を向上させようと必死のあまり生徒を殺してしまった。
 門扉の構造を変えたり、校門での朝の管理をやめてしまえば門扉で圧殺されることなどはなくなるだろうが、学力によって進学する学校が決定されるという冷たいやり方を廃止しない限り問題の根は同じだろう。
 人間は全体としみなければ人間ではない。知能や筋力の優劣で見られる限り、そこでは「脳」や「能力」「運動神経」という言ってみれば、臓器の優劣が評価されている丈でそんなものは「教育」と言うのだろうかと思う。人間を全体としてみる人間の営みを「教育」と言うのであって、単なる部分を人間としてみるところに人間の解体=人間の否定があるのではと思う。
 人間の脳と、筋力のみを刺激し、便利で豊かな社会を作り上げた文明社会はもう行きづまってしまって、地球の温暖化(実は地球上の生物の死滅化)防止のために京都に集まって相談せざるを得なくなってしまった。
 作家の村上龍さんが神戸の友が丘の惨殺事件に関する文章の中で次のようなことを言っている。
 約20年前に円が対ドルで200円を切ったときに日本の近代化という国家的な大目標は終わった。その後は国家から個人へと価値観をシフトして行かなければならないのに、学校でも家庭でも相も変わらず「いい学校に入れ、いい会社に入れ、女の子はいい会社で安定している人と結婚しろ。」と繰り返している。しかし、テレビや映画や小説で日本人の幸福の基準は変更していることを子どもたちは半ば強制的に気づかされている。今この国で尊敬されているのは、先端機器を上手に使いこなし余裕のある生活をして趣味を楽しむ人々であり、海外旅行によく行き、おしゃれをし、スクーバダイビングやガーデニングやアウトドアライフを楽しみ、華やかな恋をし、人生を楽しむ人たちである。一方にそのような世界を見つつ、一方では相変わらず近代化のレールを走らされている子どもたちは別の、あるいは個人的な新しい生き方のモデルを見つけられない状況にいる。
兵庫県教委と神戸市教委が設置した「心の教育緊急会議」の座長を勤められた河合隼雄さんが談話で「挫折や失敗」を受け入れるような教育、「常に監視して行動を細やかに規制する」管理教育の危険性を述べておられたが、7年前何故兵庫県教委は自らの挫折や失敗を素直に認め変革の機会としなかったのかと思う。
事件の本質への解明へと向かわず、他者と話し合わず、ひたすらに門扉を撤去し、風化させることに意を用いてきているとしか思えない。7年目に友が丘の事件が起きてから「心の教育」を叫んでいるが、高塚高校事件を生む教育のあり方にメスを入れなければ、「心の教育」も何もできはしないであろう。
 この文章の題のような時代を来たらせられるかどうか。難しいだろう。学校だけそんなことはできない。社会全体が変わらなければという意見もあるだろう。しかし、学校からやらなければ、どこから始めるのだろうとも思う。


 今回はちびくろ保育園の園長でラミ中を設立された田中英雄さんに文章をお願いしました。
 私たちの会も最初からのメンバーで、精力的に活躍されております。

Last Updated on 2020年8月25日 by manager

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