保育・教育

「いのち」の世界

 脳死や臓器移植をめぐる論争の中で、相反する立場の人が、同じように「いのちの大切さ」を訴えています。しかし、「いのち」という言葉が乱用されていく中で、「いのち」は日々奪われつづけています。この「いのち」の氾濫が、「いのち」を奪いつづけていく事実に、むしろ今は「いのち」という言葉を使うことに、或る意味で危うさを感じているのです。しかし、それは「いのち」という言葉によってその本質が見失われてしまう事を表しているのではないでしょうか。
 それは、私が「いのち」を考えるという、その構造自体がいのちの在り方に反しているからではないかと思います。むしろいのちに私が、与えられるという、私の存在の根拠として私に先立ってあるいのちを、見つけだすことから、もう一度、はじめなおさなければならないのではないでしょうか。
「いのち」とは、言うまでもなく、生きている事実をとらえようとした言葉です。しかし、その生きている事実とは何をいうのでしょうか。それは、生きる世界を持つということではないでしょうか。生きる世界を持つことによって、ここにひとつの形としてのいのちが、存在している事を表しているのではないかと思うのです。そして、この生きる世界もまた、いのちの世界として、私たちは「いのち」とよんでいるのではないでしょうか。
「いのち」とは、いのちがいのちの世界に生きている事実をあらわしたものであって、決して「いのち」という実体的なものをいおうとしているのではないと思うのです。むしろ、「いのち」を実体的なものとして、「いのちの大切さ」を語るとき、「いのち」はいのちの世界を奪いはじめるのではないでしょうか。それが、今日の、私たちの社会の、すがたそのものではないかと思います。
 それならば、この社会に、本当のいのちを甦らせていくために、私たちは、どのような方法を持てるでしょう。
 私は、それを、子どもたちから学びたいと思うのです。言葉以前の世界で、生きることを喜ぶ、そのすがたこそが、いのちのすがたに他ならないと思うのです。私たちは、自分のいのちの記憶の中から、この喜びをとりもどすことを、何よりもはじめなければならないと思うのです。そして、この喜びから、もう一度、世界全体を見つめなおすことが「いのち」を甦らせていく唯一の方法ではないかと思うのです。

梶原敬一


耐震柔構造のひと 梶原敬一氏 『いのちの世界』
 高塚門扉圧殺教育事件は戦後日本の「いのちの文化」の欠落を象徴していると考える。
 では、いのちの文化をつくりだし、それを生きるとはどういうことか。それをこの夏の追悼集会のテーマに据えたい。メインゲストに梶原敬一氏をお呼びする。
 氏は二十四時間、こどもの生死につきあいつづける国立・姫路病院・小児科のお医者さん。
 姫路城の裏手に博物館と図書館の間を西へ入る道がある。道は高い木立ちにはばまれ行き止まりになっている。そのうす暗な森の底に、時を忘れ眠りつづける、古い古い老朽の木造平屋一戸建て住宅十棟ほどが残っている。町なかにありながら夏には鬱そうたる木立ちに囲まれ草ぼうぼうの、時代離れした「ところ」と化す。取り壊しの予定もあって、訪ねる度に空家が増え居住者が消えていく。逃げ出すと言うべきか。
 氏はここに住んで十数年、ガタピシも苦にならず木々の枝を払うでもなく草を刈ることもせず、かえってこの「ほったらかし」をたのしむ態である。きっと、氏が、ここの最後の住人になるだろう。
 ほぼこれで梶原氏のお人柄は尽くされているがあえて。実は氏の真骨頂はその心(精神)の柔らかさ(耐震柔構造)にあるのだろうと、この柔構造の強靭さが梶原氏の魅力である。
 七月十一日のこの梶原氏の「いのち」のお話は飲んだ気のしないアメリカンでなく、きっと濃香なヨーロピアン・コーヒーの味がするはずだ。

ご案内・曽我 陋

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