校門改修公金支出賠償請求訴訟

裁判の傍聴をして

 裁判を見ていて弁護士さんの緻密な論理の積み重ねがこれまで見えなかった所に徐々に光を当てていくように思えました。
 特に私が驚いた事は、校門改築の工事費が、環境整備費から出ていて、特別に予算を組んだものではなかったことです。
 現在、高塚高校には車椅子の生徒がいるのですが、エレベーターはありません。2000万円はかかるというのを聞いて、校門のときのように、教育的に配慮して、環境整備費でつけてほしいと思いました。

高塚高校教諭 高橋 智子


公庄 れい

校門が生徒を殺した 校門が悪い
悪いヤツは殺してしまえ!!
校門の撤去もよう替えの費用
二千三百九万六千三百円也
制服につつまれた若い生命達は
今日も生命を管理されるために
そらぞらしい花だんや新しい
校門を通る

どこかでニンマリ笑う黒いヤツ
裁判所もニンマリ笑っているのか


校則も法律も、より気持ちよく人間関係をつくるために決められていたと思っていた。
でも、それは国や教育行政が大きな力をもって管理していることに気づいた裁判でした。
だからこそ気づいた私は、この事件のことを忘れない。

1997.12 いなだ 多恵子


あほくさ裁判伴走記ー正義はまぼろしー

曽我 陋

時間、労力、費用、精神などのいずれの点でも結果「あほくさい」裁判になるのは、この国や国民や司法当局が、こぞって、いさかい(諍)を社会常識で裁く(但し、そこにも権力が伏在しているが)社会的な知恵としての裁判制度を使いこなせていないということだろう。国、国民、司法組織、それらは帰結するところ、わたしたち一人一人のこととなる。つまり、裁判のあほくささはわたしたちのあほくささということだ。国が、司法が、世論が「そんなあほなことをまさかするまい」などという根拠のない甘えた無自覚がわたしたちのどこかにあって、それが幻の正義を産む。幻想としての正義をあてにして、それが裁判で明らかにされるものと「信じて」その制度に頼る。しかし、現実には、わたしたち一人一人が確実にもがき苦しんで私たちのものとなしえた(社会化された)もの以上の結果はうまれ得ない。あるいは、政府や国が表向きは敗北でもかえって「そのほうが自分たちには都合が良い」場合に裁判を利用することもあろう。いずれであれ、わたしたちはありもしない正義によりかかるのでなく、一つ一つを確実につかみとって(社会化して)いかねばならないということだろう。およばずしてのあほくささも人生の華のひとかけらだ。ぼくはこのあほくさい裁判をも自分の履歴の一つとして清書する。おおいに裁判を遊びましょう。

Last Updated on 2020年8月25日 by manager

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