石田僚子さん追悼20周年記念文集

失われた時間と世代

堀 蓮慈

 この二◯年で学校は変わったか? 基本的に変わってない。その一方で、学校が「人材」を送り込んできた官界も産業界も、立ち枯れというか立ち腐れの状況を呈している、と思う。失われた一◯年とかいう言葉があったが、とうてい一◯年やそこらで済みそうにない。それは結局、過去の学校教育が社会の劣化を促した、いうことやろなあ。
 バブルが崩壊して、一九九◯年当時の高校生が大学を出た時には就職難に直面した。いわゆるロストジェネレーション(以下、ロスジェネ)のはしりや。今、彼らは三五〜三八才になって、半分ぐらい(?)は次代の子どもを育ててるやろが、結婚せず、子どもを作ってない人も多いわな。そのこと自体が、日本社会に対する批評やろと思うんやが。
 ロスジェネの困難は、単に仕事がなくて非正規雇用を強いられてる、いうだけのこっちゃない。子ども時代から刷り込まれて、それに従って努力してきた価値観が「無効」を宣告された、いうこっちゃから。よほど能力があるか運がええ人間は別として、ちょっとぐらい努力をしても報われんとしたら、「もうヤメや」いう気分になるのも自然や。そやけど、何かを失ういうことは、何かを得るチャンスでもあるんやから、茫然自失してる場合やない。もし、これ以上失うもんはない、いうとこまで追い込まれてるんやったら、これほど強いもんはないんやが、ロスジェネ諸君の大部分は、まだそこまでは行ってないようやな、幸か不幸か。
 で、どういう価値観に切り替えるべきか、いうたら、教える側や雇う側の都合やなしに、生身の人間を基準にする、いうこと。ぼくは、事件直後の関西フリースクール研の通信に、「遅刻して何が悪いねん」いう文章を書いたけど、学校いうんは金を払って学びに行く場なんやから、遅刻も欠席も、本人が権利を放棄してるだけで、学校にそれを咎める権限はない。職場の場合は、遅刻や欠勤は賃金カットや解雇の理由になるんやろが、労働者に規律を要求するんやったら、会社も「ちゃんと給料を払え」いう要求に応えなあかんわな。今は労働組合が弱いから、バラバラの個人が会社に対峙させられて、勝負にも何もならずに一方的にやられてるが、それやったら個人の側もそういう土俵に乗らずに、別の場所で勝負するべきや。で、その時に求められるんは、学校では身につかんタイプの力なんよ。
 地頭(じとう、やないよ。じあたま、つまりもともとの頭脳)がええ場合は、学校教育にもかかわらず創造性や柔軟性を失わずに済むやろが、いったん洗脳されても絶望することはない。人間には復元力があるから、失われたもんを取り戻すことはいくつになっても可能や。もちろんバブルの再来を期待するんやなしに、今度は簡単には失われん本物の価値を手に入れたいもんやな。

(ほり・れんじ 真宗大谷派僧侶)

続きを読む

関連記事

Back to top button
Close
Close