「校門圧死事件」から『親の教育権』を求めて

神戸高塚高校事件を考える会会員  柴垣 六郎

 「校門圧死事件」・地方行政機関であり、その長が知事によって任命されていながら知事の権限のおよばない独自機関のような文部省の末端機構にあたる兵庫県教育委員会とその実践機関としての学校によって、生徒が殺された事件(「校門圧死事件」)が一九九◯年七月六日起きた。この「事件は」教育管理機構に「一地方の、一学校の、一教師による事故」の扱いを受け、校門を押した教師一人が有罪となった。そしてその教師が学校から追放されて決着した。
 しかし、この事件の二週間後に開かれた「全体保護者会」に出席したことを契機に、学校改革に立ち上がった親たちがいた。もちろん、自分の子どもたちの置かれている現在の高校教育という環境と自ら経験し想像していた学校教育とがあまりにかけ離れていたとうショックもあった。だが、それだけでなく、憲法や教育基本法の基での民主教育が戦後の闘いのなかで曲がりなりにも民主主義的方向に沿って深められていっていると考えてきていたものが幻想であったと気がついたと言うべきかもしれない。第一回全体保護者会が与えたインパクトは親たちにとって強烈であった。
 改革のために立ち上がった親有志の呼びかけで、「神戸高塚高校事件を考える会」が翌年の春誕生した。そして、労働運動は経験していても、教育委員長と教育長の違いも分からない親たちの運動のための模索が始まった。まず、学校に二つある組合の教師たちとの話し合いを持ったり、教育に関する学習会を重ねたりした。こうしたなかで、「校門の保存と碑の建設を!」をという署名に取り組み、教育委員会に提出したり、公文書公開請求に取り組んだりした。これらの闘いから「会」誕生のきっかけとなった「第一回全体保護者会」の録音テープ公開のための闘いが始まった。
これは最初は校長に聞かせて欲しいとお願いしたものが、拒否されたため、兵庫県の公文書公開条例の活用と不服申し立て、そして裁判闘争に発展していったものである。この裁判闘争の中から、親には自然権としての「親の教育権」があり、当然その中には「知る権利」も含まれると言う理論があることを知らされ、それを武器として闘っていくことになった。
 当時は、子どもの権利条約の批准運動が取り組まれており、子どもの権利条約からの親の教育権の検討がなされるようになっていた。しかし、主要な考えは、民法八二◯条の「親権を行うものは、子の監督及び教育する権利を有し、義務を負う。」に根拠を置いたもので、憲法の中に権利を読み取る主張者は少なかった。
 このような状況のなかで一九九四年三月に損害賠償請求裁判を神戸地裁に提訴した。理論的には具体的な県の公文書公開条例の「親の知る権利」に根拠を置いたものであった。だが、何回かの訴状検討会のなかで、弁護士により、結城忠氏の著書「学校教育における親の権利」(海鳴社一九九四年)が我々にもたらされた。ここで一気に「親の教育権」に根拠を置いた「親の知る権利」を主張した訴状に発展させられた。この書物の発見により、理論的根拠になりそうな書物を探してみると、少ないなかでも、「父母の教育権とPTA」研究会を軸にされていた今橋盛勝氏が雑誌「世界」に「父母の教育権」の根拠を発表されていたり、結城忠氏が季刊教育法で「親の教育権」についての理論を展開されていた。後には、全国PTA問題研究会(現在は教育情報の開示を求める市民の会)の山口さんや東京の目黒さんから理論や資料を送付していただき、様々な著書があることも判明した。
 昨年の十一月十二日付けで、高塚高校事件を考える会の有志で訴えていた、親の教育権が憲法に保証された権利であると主張した裁判は最高裁で敗訴になった。しかし、大阪高裁で闘っているとき、神戸地裁で捨てたとされていた「全体保護者会の録音テープ」が元PTA役員によって保管されていることが分かり、文書提出命令で我々にもたらされることになった。反訳書を証拠書類として提出したことから、裁判所は和解の提案をした。兵庫県は応じなかった。それで、判決となり、大阪高裁も敗訴になった。しかし、どうしても欲しかった録音テープを我々は入手することができた。闘ってこそ、勝機はあると痛感した。約六年の闘いだった。
 石田僚子さんが亡くなられて今年でまる十年になる。十年前に僚子さんの犠牲で学校がおかしいと気づいた人達が始めた運動が、今は小川ぐらいかもしれないが、着実に流れになってきている。運動がこの流れになるのに、私たちも少しぐらい役立ってきたと感じている。それは、十年前では想像だにできなかった程、教育に関する裁判が前進していることからもうかがえる。
 「風の子事件の勝訴」(一九九九年九月三十日)内申書の全面公開を勝ち取った「西宮裁判全面勝訴」(一九九九年十一月十二日)。そして、和解なども含めると裁判所の対応が変わって原告の主張を認めるようになって来ている。
 この背景は何だろうか。ずばり、親たちが市民として成長しているということだろう。戦後五十年を経過してやっと、親が権利の主体として自覚できるだけの市民社会になってきたということなのだ。民法八二◯条の義務を果たすことから脱却し、憲法や子どもの権利条約を自らの権利を主張するための理論的根拠にしつつあると感じられる。もちろん、子どもが介在しなければ大人たちのこの自立はありえなかったかもしれない。私を含めた親たちが、子どもたちの悲鳴を、自立できないできた自らの成長の転機にしようとしたと考えられる。親になって、権利の主体として生きなければならないことを学びつつあり、成長しつつあるという段階に今大人たちはいるのかもしれない。日本の市民社会のさらなる成熟は子どもの権利条約の実践と親たちの真摯な対応によるだろうと私は考えている。
 やっと成熟しつつある市民社会の風を大いに吹かすために、子どもも、教師も、親も、自らの権利の確立のために主張しあい、新しい規範を作りだす勇気を持たなければならないだろう。もちろん、教育に関する決定の会議などに、子どもも親も参加の機会を与えられることは当然の前提にしていはもちろんである。「親の教育権」は、このような社会のなかで有効に機能するに違いない。微力ながら私も「親の教育権」が当たり前になるようになるまで、教育に係わっていきたいと考えている。
 石田僚子さん、私たちを励ましてください。ご冥福を祈ります。合掌。

Back to top button
Close
Close