学校って何?

公庄 れい

 学校教育という怪物を相手にこの冊子に書かれる方も読まれる方もそれぞれの闘いをしておられることとぞんじます。学校というところがまだ怪物になってなかった頃の事を私の身辺の事実としてお伝えしたいと思います。
 年表を見ますと明治五年(一八七二)学制頒布、明治一九年(一八八六)小学校令公布となっています。明治一七年生まれの私の祖母が学齢期に達したときには、和歌山県伊都郡花園村にも四年制の小学校が出来ていました。しかし学校に行けるのは男児と、男児の居ない家の長女のみでした。祖母は長女でしたが弟が居たので学校へは行けませんでした。字が読めるようになりたかった祖母は学校へ行ける子がうらやましくてなりませんでした。それから三年経って三つ年下の妹が学齢期に達したとき女の子も学校へ行けるように制度が変わっていました。学校に通って字が読めるようになった妹が教科書を読むのを隣で聞いて覚えました。
 一八で結婚して六人の子の母となり長男が小学校に通うようになると、長男の教科書でずーと勉強をし、普通の雑誌や小説本は読めるようになりました。夜、床の中でランプの光で本を読んでいる祖母の枕元を蹴るようにして姑が「おなごが字い読んで」と憎らしそうに通ったと幼い私に祖母は何度か言いました。
 私の母は尋常高等小学校の学歴しかありませんが、英語以外のほとんどのことは理解する能力をもっていました。それは良い教師に恵まれたからです。大正元年生まれの母が小学校に通う頃(当時花園村には小学校が三つあり、母の通った有畝小学校は全校生七◯人くらい、教室は二つでした)赴任して来られた曽和先生ご夫妻はこの山奥の子どもたちが将来どんなところでどんな暮らし方をしても通用するようにと人間としての基本をしっかりと教えこまれました。先生と子どもの関係は実の親子のようで私の母などは先生ご夫妻がご生存中はもちろんのこと、亡くなられてからもお子さま方との往来を絶やしませんでした。
 私が田舎住まいを始めたころたまたま河原で漬物の重しに石を拾ってきて、隣のおじさんに「この石、重うていいのよ」と言うと、おじさんは「地球の中の方にあったんじゃろよ」と事も無げに言いました。
 この地方の人たちは曽和先生に教えてもろた人はみな賢いんじゃよ、と言っている。
 学校の輝いていた頃のお話です。

(ぐじょう・れい あたらし舎)

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